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方広寺大仏殿の塀礎石発見

豊臣秀吉が1595年に完成させた方広寺(京都市東山区)で、大仏殿を囲んでいた塀の礎石2基が京都国立博物館の構内で見つかったと、市埋蔵文化財研究所が10日発表した。

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東大寺大仏殿(奈良市)をしのぐ大きさだった方広寺大仏殿は、秀吉死後の1602年に全焼し、息子の秀頼が再建。その後、落雷で全焼し、今は建物はない。秀吉が造営した当初は泥土で固めた築地塀で囲まれていた。

 見つかった礎石2基は東西に並び、南北がともに50センチ、東西がそれぞれ95センチと55センチの長方形。2基とも上面に柱を立てるためのほぞ穴が開けられ、上面と南面が丁寧に仕上げられていた。

 礎石2基の西約200メートルに築かれた秀吉期の石垣にもほぞ穴があることから、秀吉期の塀に関連しており、大仏殿の南東側にあったとみられる。

 大仏殿跡のすぐ南側に位置する三十三間堂の「太閤塀」(高さ5.3メートル)の柱の間隔は3メートル。これに対し、礎石2基のほぞ穴の間隔は3.3メートルと上回り、同研究所の担当者は「大仏殿の塀は太閤塀より大きかった可能性がある」と話した。 



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京都国立博物館 は、方広寺の跡地に建てられた。


豊臣秀吉は天正14年(1586年)に、松永久秀の焼き討ちにより焼損した東大寺大仏に代わる大仏の造立を発願。当初は東山の東福寺南方にある遣迎院付近に造立する予定であった。

大仏と大仏殿の造立はいったん中止され遣迎院の移転も途中で中止(おかげで遣迎院は南北に分立)された。
のち天正16年(1588年)に、場所を蓮華王院北側にあった浄土真宗・佛光寺派本山佛光寺の敷地に変更して再開(佛光寺は秀吉の別荘「龍臥城」のあった現在地へ移転)した。

当時の敷地は広大なもので、妙法院はもとより、現在の豊国神社、京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であり、また三十三間堂南に遺る太閤塀(重要文化財)や南大門(重要文化財・豊臣秀頼が築造)も方広寺造営の一環として整備されたものである。なお、東寺の南大門(重要文化財)は方広寺西門として建築されたものを明治になって東寺に移築したものである。


天正19年(1591年)5月に大仏殿の立柱式
文禄2年(1593年)9月に上棟式
文禄4年(1595年)に完成。

当時の敷地は広大なもので、妙法院はもとより、現在の豊国神社、京都国立博物館、そして三十三間堂の敷地をも含むものであった。
現在の方広寺、豊国神社から国立博物館西側に見られる巨大な石を積んだ石垣はかつての大仏殿の石垣であり、また三十三間堂南に遺る太閤塀(重要文化財)や南大門(重要文化財・豊臣秀頼が築造)も方広寺造営の一環として整備されたものである。なお、東寺の南大門(重要文化財)は方広寺西門として建築されたものを明治になって東寺に移築したものである。

この時に造立された大仏は、東大寺の大仏より大きい6丈3尺(約19m)の大きさ。

また、刀狩で没収した武器を再利用してにしたものも使われた。


造営期間短縮のため、大仏は銅造ではなく木造「漆膠(シツクヰ)」で造られた。
大仏は完成の翌年の文禄5年(1596年)閏7月13日に発生した慶長伏見地震により倒壊した。倒壊

このとき秀吉は「自らの身をも守れないのか」と大仏に対し激怒したと伝えられる。  なるほど、そうかも。ヽ(´∀`)ノ
このとき大仏殿は倒壊を免れている。大仏殿は倒れてなにのに、中にいる大仏さんだけが、倒れたのか。

秀吉は、夢のお告げと称して、倒壊した大仏に代わり、善光寺如来(善光寺式阿弥陀三尊)(当時は甲斐善光寺に在り)を移座して本尊に迎えることを計画。木食応其の尽力により、慶長2年(1597年)7月18日に善光寺如来が京に到着し、大仏殿に遷座された。無理やりやなぁ。。。

秀吉は翌慶長3年(1598年)病に臥したが、これは善光寺如来の祟りではないかということで、同年8月17日、善光寺如来は信濃国の善光寺へ戻されることとなった。返却
しかし、翌8月18日に秀吉は没した。 

その後、豊臣秀頼は慶長4年(1599年)、銅造での大仏復興を図る。

1600年 関ヶ原

慶長7年(1602年)流し込んだ銅が漏れ出たため火災が起き、造営中の大仏と秀吉が全国六十六州の巨木を集めて建立した大仏殿は全て焼失 もったいない!!

慶長13年(1608年)より再建が開始され、慶長15年(1610年)6月に地鎮祭、同年8月に立柱式が実施されて、慶長17年(1612年)には大仏殿と大仏が完成した
続いて大仏は金箔を押す作業に入る。
慶長19年(1614年)には梵鐘が完成し、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなった。

ところが家康は同年7月26日に開眼供養の延期を命じる。方広寺鐘銘事件

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣

大仏自体は大坂の陣の後も残されたが、寛文2年(1662年)の地震で大破

大仏は寛文7年(1667年)に木造で再興
壊れた銅造の大仏のほうは寛永通宝の原料にされたという。

この大仏も寛政10年(1798年)に落雷が大仏殿に落ち、火災で焼失
以後は同様の規模のものは再建されなかった。

戸時代後期の天保年間(1830年 - 1844年)、尾張国の有志により、上半身のみの大仏が木造で再興された。
1871年(明治3年)、方広寺境内の大部分は収公され、現在の規模となった。

1973年(昭和48年)の火災により、天保再興の大仏は焼失した。

-昭和48年3月27日-京都市消防局の記録-
原因は,大仏殿西側受付室で使用されていた練炭火鉢の不始末。
自動火災報知設備が設置されておらず,手動の設備も故障していたなど,いくつもの不運が重なって大火になった。

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心臓が止まりそうになった。
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テーマ : 歴史
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Author:Protea Mama
7年余、楽天ブログを書いていました。いろいろな機能が終了になるということなので、FC2ブログに移動しました。楽天ブログには「フリーページ」があります。大変ありがたい機能ですので、楽天ブログも大事に置いておこうと思います。良かったらご覧ください。

私が「障害児の親になったのだ。」と気づいた頃は、情報を得ることが難しくて、子の将来の姿も、自分の将来の姿も想像できませんでした。どんな未来が待っているのか、不安で不安で。だれか、知らせて。だれか、見せて。。。と誰かをつかまえて訊きたかったのです。だから、今の次男の様子を書いておこうと思います。それを読んで、ガッカリする人もあるかもしれません。安心する人もあるかもしれません。ともかく、私達は今、生きています。親子無理心中事件は起こしませんでした。これからもないことを願っています。次男は、コロニーや施設ではなくて、街中で生活して、成人して、やがては老いていく初めての世代の障害者だと思います。どんな生活が有り得るのか、親亡き後の次男の生活は幸福なものになるのか。次男に親を独占されて、すね気味に大人になってしまった長男を真に解放してやることができるのか。。手探りの毎日です。

希望は強い勇気であり、新たな意志である。

すべてのことは、願うことから始まる。

我々にとって深遠なものは、逆の相の下に隠されている。生は死の下に、愛は憎しみの下に、義は罪の下に、力は弱さの下に隠されている。

いずれも、マルティン・ルター の言葉です。
私はクリスチャンではありませんが、とても良い言葉だと思います。

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