ゴッホ展と瑞泉寺(秀次の首塚とその一族・家臣の墓所)
ノンビリ散策しながら行きました。
大盛況でした。
ちょっと息苦しいくらいでした。
幸い次男は長身なので、いつも人波の後ろから鑑賞します。
絵に近寄ったら、よく見えるのでしょうが、次男も私も気後れして前には行けません。
それでも、電車に乗って、ポコポコ街中を歩いて、お出かけするのはウキウキします。
けっこうを距離を歩くので、よい運動になります。
キョロキョロしながら歩くと、少しも飽きません。
次男は、飽きているのかな?
不明です。
訊ねてみたことがありません。
次男には、「飽きる」「飽きない」という言葉の概念が理解しにくいと思います。
出かけると、お腹がすいて、ごはんがおいしい。。。くらいに思っているかもしれません。
それでもいいかな。。と思います。
次男にスマホを向けると、ちょっとハスに構えて被写体になる気満々です。
自己肯定感をもっているようです。
たくさんのラッキーに恵まれているからだと思います。
ありがたいです。


京都国立近代美術館から眺めた大鳥居。
この高さ、角度で眺めたのは初めてでした。
平安神宮を経由して散策しながら瑞泉寺へ。

瑞泉寺は、現在は街中にあるが、江戸時代のはじめまで、広い鴨川の河原の中州だった場所にある。
慶長16年(1611年)、京都の豪商角倉了以によって高瀬川を開く工事中が行われているときに、偶然発見された石に秀次悪逆塚と刻まれていた。それは文禄4年(1595年)自害させられた豊臣秀次の石塔だった。実は高瀬川の開削責任者だった角倉了以の実弟吉田宗恂(医師)は、秀次に仕えていたことがあり、彼は秀次事件への連座は免れたが、前年の慶長15年(1610年)に死去していた。
慶長16年は宗恂の一周忌にもあたることから、了以と立空桂叔(浄土宗西山派僧侶)は、秀次の菩提を弔うために江戸幕府の許可を得て堂を営むこととし、秀次の戒名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」から寺号を取って、瑞泉寺を建立した。以後、瑞泉寺は400年間にわたり秀次事件により死罪となった秀次と連座した一族・家臣の菩提を供養している。



中央が、豊臣秀次 墓石(かつて秀次の首が入れられた石櫃)
秀次の幼児、妻妾たち39人、賜死した家臣10人の五輪の塔(五輪卒塔婆)
瑞泉寺
昨年の夏に、近江八幡市を散策しました。
レンタサイクルを駆って気持ちよく散策しました。
八幡山山頂にある瑞龍寺にも行きました。
行ってから知ったのですが、瑞龍寺は、豊臣秀吉の姉で、秀次の母の智(とも)が出家し、瑞龍院日秀尼となり嵯峨に開いた寺院が江戸時代に西陣に移転し、昭和になってから秀次ゆかりの八幡山城址に移転した寺でした。
1595年(文禄4年)秀次が切腹を命じられ、秀次の妻子も三条河原で処刑、智の夫の三好吉房も流刑となり、残された智の心中は、如何ばかりであったことか。
智は、孫さえもほとんど失ったが、24歳で病死した次男:羽柴 秀勝(秀次の弟)の娘:羽柴 完子は、母親の江が文禄4年(1595年)、徳川秀忠と再々婚し伯母の淀殿に引き取られたことで、生き残った。
智は、完子と交流があったそうで、それを知って、私の気持ちが救われた。
勝手に悲痛に感じて、勝手に救われた。
智の血筋は、完子を通して現代まで続いている。
血筋が続く、続かない。。。ということに、私はあまり興味がないけれど、大切に思う人たちを次々と失うのがたまらない。
若い人を見送るのは尚更イヤだ。
自分が先に死にたい。
日秀尼は、寛永2年4月24日または4月4日(1625年5月30日または5月10日)没。
豊臣 完子(とよとみ の さだこ) / 羽柴 完子(はしば さだこ)万治元年8月18日(1658年9月15日)没。
日秀尼が先に死ねて、よかったです。
祖母と孫だから、当たり前のことなんだけど。
当たり前の順番にならないことがたくさんあったので。
私と次男の関係でも、私が先に死ぬのが当たり前の順番です。
でも、次男を残していくのは、気がかかりで、気がかりで、次男の葬儀を私がして、礼状を出してから死にたい。。。。
という願望があるけれど。。それは、邪道だ。
邪道なんだ。
”大丈夫。。段取りはつけてある。。。” と肯いてから、死にたい。
しかし。。。これが難しいことなんだ。。(T_T)
時代がかわっても、なにがあるか、わからない。
刀が別のものに代わるだけで、どんなひどいことおこるか、わからない。
暴力的なことでなくても、私たちは、偶然とか、運とかに振り回されて。。いやだなぁ。。と思う。
私は、いつも、歯がたたないものに諍い続けているように思う。
ずっと諍い続けて、私は、ちょっと、疲れてきている。
それでも、「諍い続けてやる。」という気持ちが、まだある。
ヘトヘトなんだけど。
まだ、ある。