鳥羽離宮跡散策
でも、どこかに出かけましょう。
ジーーーーッ としていると、たぶん次男は腐ります。
次男は生ものですから、新鮮な空気を入れてやらねばなりません。
今日は、以前から気になっていた「鳥羽離宮跡」を散策する予定です。
遺構は残っていませんが、歩いてその広大さを測ってみたいです。
鳥羽離宮(とばりきゅう)は、12世紀から14世紀頃まで代々の上皇により使用されていた院御所。
鳥羽殿(とばどの)・城南離宮(じょうなんりきゅう)とも呼ばれる。
鳥羽は、平安京の南約3kmに位置し、鴨川と桂川の合流地点で、山陽道も通る交通の要衝であった。平安京造営時に朱雀大路を延長した鳥羽作道も作られ、鳥羽は平安京の外港としての機能を持った。また、貴族達が狩猟や遊興を行う風光明媚な地としても有名であった。このため古くから、鳥羽には貴族達の別邸が建ち並び、市が立つなど、都市として発達していた。
11世紀、院の近臣である藤原季綱が鳥羽の別邸を白河上皇に献上した。白河上皇は大規模な拡張工事を行った。後の南殿である。さらに東殿を建設し、邸内に自らの墓所として三重の塔を中心とした安楽寿院を造営する。12世紀の鳥羽上皇の代には泉殿をはじめとして増設が繰り返された。鳥羽上皇も安楽寿院に本御塔と新御塔の2つの塔を造営し、本御塔を自らの墓所と定めた。新御塔は美福門院の墓所を予定していたが、近衛天皇が葬られた。これらの造営、作事には各地の受領に任ぜられた院の近臣達が分担してあたっている。このように、院政期には鳥羽は経済、物流の拠点としてだけではなく、政治の中心地ともなった。
また、治承三年の政変の際に平清盛の命令によって後白河法皇が幽閉され、院政を停止されたことでも知られている。南北朝時代の戦火によって、多くの建物が焼失し、その後急速に荒廃していった。

近鉄、竹田駅から散策を始めます。








城南宮で、旧暦の正月頃にあたる2月11日(祝日)に日を定め、「源氏物語」若菜の巻にちなみ、セリ・ナズナ・スズナ・スズシロ・ホトケノザ・ゴギョウ・ハコベラの春の七草を神前に供え、お下がりの七草をお粥にして参拝者にふるまわれる。
植物のみずみずしい力を体内に摂りいれて、無病息災・延命長寿を祈願するそうです。
次男も、私も、気持ちよく健康でいたいです。
けっこう塩味の効いたお粥でした。




神苑には、見事な枝ぶりの垂れ梅がたくさんあるのが、柵越しに見えました。
でも、まだ、梅の花はひとつも咲いていませんでした。
花盛りの頃に再訪したいものです。
慶応四年(1868)正月三日、京都に向った幕府軍と薩摩兵の間で戦いが始まった戊辰役の発端となった鳥羽伏見戦跡

現在の鴨川を望む。




タップリ歩きました。
ご褒美に、美味しいラーメンを食べて温まりました。

帰路の電車は、先頭の席に座ることができました。
明らかにテツオタとわかる青年と次男が並んで座っていました。
運良く、運転手さんが、運転席と先頭座席の間のカーテン(?)を全く下げないで、全開にしたまま運転する人でした。
次男とテツオタ青年が、食い入るように進行方向を見つめていました。
雪が降った時間もあって、とても寒かったけれど、それがまた、京都らしくて気持ちよく歩きました。
次男はいつもよりもさらに、ニコニコしていました。
どうしてかな?
次男がニコニコしてくれると、いいことがやって来るように思います。
いいことがたくさんやって来たらいいなぁ。。