近江八幡市散策 その2
次男に自転車を乗ることを教えておいて、よかったです。
「次男が交通ルールを理解して守ることができるようになる時期」と、「私が次男に自転車に乗ることを教えてやれる時期の限界」が同時期でした。
そして、私がママチャリをこいで、次男を後ろに乗せて走ることができる時期の限界でもありました。
次男を療育施設に連れて行くのに、自転車で移動していました。
カーブではこけそうになっていましたし、坂道を上がることができませんでした。
次男の身体が大きくなりすぎると、自転車に乗る練習ができないと思いました。
でも、自転車に乗ったら、必ず、交通ルールを守らねばなりません。
必ず、家に帰って来る次男でなければ、なりません。
本当に、ギリギリで間に合ったのでした。
次男本人も、私も、汗ダクダク、すり傷だらけ、絆創膏だらけになった夏でした。
近江八幡の歴史的な場所を自転車に乗って散策しても、散策マップに掲載されている全ての場所は回り切れませんでした。
歩いて回ったら、距離感がはっきり掴めてよいのですが、時間が勿体ないことでした。








豊臣秀次が築城した八幡山城の石垣です。
瑞龍寺ウィキペディアより
智(とも)は子供のない弟・豊臣秀吉に長男の秀次を養子として出していたが、1595年(文禄4年)秀次は切腹を命じられ、秀次の妻子も三条河原で処刑、夫の三好吉房も流刑となった。唯一残された智は処刑された子や孫の菩提を弔うために出家、以前から帰依していた日蓮宗による寺院を嵯峨の村雲(現在の二尊院の近く)に開いた。このとき村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領1000石を与えたのが後陽成天皇であり、このため瑞龍寺は日蓮宗寺院では唯一の門跡寺院となり、別名を村雲御所と称するようになる。以後、代々皇女や公家の娘を貫首として迎えた。
江戸時代には嵯峨から西陣(現在の堀川今出川付近)に移転する。その後、1788年(天明8年)天明の大火で全焼し、9世・日尊尼は1824年(文政7年)から28年の歳月を掛けて再建した。
1961年(昭和36年)、11世・日浄尼のとき、京都今出川堀川から秀次ゆかりの八幡山城址に移されたが、日浄尼はその完成を見ず遷化。
村雲御所跡の碑 (公益財団法人)京都市埋蔵文化財研究所
聚楽第にかかわる石碑など
そうか、その場所に、入れ替わりに、西陣織会館が建設されたのか。









アンドリュース記念館の2階にナッツ屋さんがありました。
美味しいコーヒーをごちそうしてくださいました。
で、ナッツを買ってしまいました。(。-_-。)
こういう、いかにも、”環境に良い、体に良い、雰囲気の良いお店” の価格は、ちょっとお高め。
正直に言うと、私の生活している価格帯ではありません。
でも、たまには、いいか。。。。ということにしておこう。