国立民族学博物館に「夷酋列像」を見に行きました。
当時26歳の蛎崎波響が描いたA3サイズのアイヌの長たち12人の絵。
蛎崎波響は、松前藩藩主を兄に持ち家老であり、絵師であった。
寛政元年(1789年)、道東でアイヌの和人を襲撃した事件があり、死者71人を出した。和人への襲撃はクナシリ島で起こり、やがて対岸のメナシ地方へと飛び火した。クナシリ・メナシの蜂起。
その背景は、和人がアイヌの人たちを暴力によって働かし、だまし、女性を蹂躙したことにアイヌの若者達が怒りを爆発させたのだった。
松前藩からの鎮圧隊は260人。鉄砲85丁、大砲3門の重装備。
その指揮官の一人が蠣崎波響だった。
アイヌの若者達に勝ち目はなかった。
このとき、事態の収拾に奔走したアイヌの長老たちを描いたのが「夷酋列像」
当時本州から蝦夷地に入ってきた商人は松前藩に金を払い、交易する場所の権利を手に入れた。
アイヌの人々を酷使していた。
松前藩はもちろん搾取、暴力、虐待を知っていた。
松前藩に愚君が続いたことは、すべての人に不運をもたらした。
長老達に 説得された若者たちは根室のノッカマップに集められ、37名が斬首された。
37名には、長老の息子も含まれていた。
斬首された首と長老達が松前に連行された。
松前に入る手前で、アイヌの長老達に蝦夷錦という中国製の衣装を着せて、隊を組んで凱旋行列をさせた。
アイヌ民族を滅ぼされないように、長老達は松前藩の命令に従った。
幕府はロシアの南下を脅威に感じていた。
老中松平定信は松前藩の統治能力に疑問を感じていた。
密貿易の疑いもあった。
そうした中で起こったのが、クナシリ・メナシの蜂起。
幕府の松前藩に対する不信感は決定的になった。
松前藩は藩の取り潰しを恐れ、生き延びるために「夷酋列像」を利用した。
アイヌ民族を統治していることを示したかった
アイヌ民族の窮状を隠す為に豪華な衣装で着飾らせた。

絵は寛政2年(1790年)11月に完成し、波響はクナシリ・メナシの戦いで失った藩の威信を回復するために絵を持参して上洛する。
夷酋列像は光格天皇の叡覧を仰いた。
絵の評判は全国に広まり、大名や公家がこぞって閲覧した。
しかし、ロシアや中国製のきらびやかな衣装をまとうアイヌの姿は外国とアイヌが既に結びついている印象を与え、かえって不信を募らせる結果を招いた。
「夷酋列像」完成から8年、1798年幕吏、近藤重蔵がエトロフ島に「木標」を建立。
エトロフ島は日本の領土であると宣言。
1799年には蝦夷地が幕府直轄になり、1807年、松前藩は縮小されて福島県の柳川に移された。
統治に乗り出した幕府は一方的にアイヌの和風化を進め、名前を日本名に、ちょんまげも結わせた。
松前藩が行った強制以上の強制だった。
アイヌ民族は日本とロシアという二つの国に翻弄された民族だった。
懲罰的な移封。
松前藩の収入は、かつての蝦夷地での収入の1/8になった。
どれだけ蝦夷地で搾取していたことか。
家老になっていた波響は、44歳。
家老とは思えないほど大量の絵を描き続けた。
残されている制作メモ(『紙絹画覚新帳』『松前行画扣』)には、花鳥人物山水の屏風(びょうぶ)は5両、虎は1両と記す。
文政元年は、1年に114件211枚を制作している。
画料を復領運動の賄賂とした。
文政4年(1821年)、松前家が松前に復帰すると、波響も翌年松前に戻り、文政9年63歳で没した。
蛎崎波響は、松前藩藩主を兄に持ち家老であり、絵師であった。
寛政元年(1789年)、道東でアイヌの和人を襲撃した事件があり、死者71人を出した。和人への襲撃はクナシリ島で起こり、やがて対岸のメナシ地方へと飛び火した。クナシリ・メナシの蜂起。
その背景は、和人がアイヌの人たちを暴力によって働かし、だまし、女性を蹂躙したことにアイヌの若者達が怒りを爆発させたのだった。
松前藩からの鎮圧隊は260人。鉄砲85丁、大砲3門の重装備。
その指揮官の一人が蠣崎波響だった。
アイヌの若者達に勝ち目はなかった。
このとき、事態の収拾に奔走したアイヌの長老たちを描いたのが「夷酋列像」
当時本州から蝦夷地に入ってきた商人は松前藩に金を払い、交易する場所の権利を手に入れた。
アイヌの人々を酷使していた。
松前藩はもちろん搾取、暴力、虐待を知っていた。
松前藩に愚君が続いたことは、すべての人に不運をもたらした。
長老達に 説得された若者たちは根室のノッカマップに集められ、37名が斬首された。
37名には、長老の息子も含まれていた。
斬首された首と長老達が松前に連行された。
松前に入る手前で、アイヌの長老達に蝦夷錦という中国製の衣装を着せて、隊を組んで凱旋行列をさせた。
アイヌ民族を滅ぼされないように、長老達は松前藩の命令に従った。
幕府はロシアの南下を脅威に感じていた。
老中松平定信は松前藩の統治能力に疑問を感じていた。
密貿易の疑いもあった。
そうした中で起こったのが、クナシリ・メナシの蜂起。
幕府の松前藩に対する不信感は決定的になった。
松前藩は藩の取り潰しを恐れ、生き延びるために「夷酋列像」を利用した。
アイヌ民族を統治していることを示したかった
アイヌ民族の窮状を隠す為に豪華な衣装で着飾らせた。

絵は寛政2年(1790年)11月に完成し、波響はクナシリ・メナシの戦いで失った藩の威信を回復するために絵を持参して上洛する。
夷酋列像は光格天皇の叡覧を仰いた。
絵の評判は全国に広まり、大名や公家がこぞって閲覧した。
しかし、ロシアや中国製のきらびやかな衣装をまとうアイヌの姿は外国とアイヌが既に結びついている印象を与え、かえって不信を募らせる結果を招いた。
「夷酋列像」完成から8年、1798年幕吏、近藤重蔵がエトロフ島に「木標」を建立。
エトロフ島は日本の領土であると宣言。
1799年には蝦夷地が幕府直轄になり、1807年、松前藩は縮小されて福島県の柳川に移された。
統治に乗り出した幕府は一方的にアイヌの和風化を進め、名前を日本名に、ちょんまげも結わせた。
松前藩が行った強制以上の強制だった。
アイヌ民族は日本とロシアという二つの国に翻弄された民族だった。
懲罰的な移封。
松前藩の収入は、かつての蝦夷地での収入の1/8になった。
どれだけ蝦夷地で搾取していたことか。
家老になっていた波響は、44歳。
家老とは思えないほど大量の絵を描き続けた。
残されている制作メモ(『紙絹画覚新帳』『松前行画扣』)には、花鳥人物山水の屏風(びょうぶ)は5両、虎は1両と記す。
文政元年は、1年に114件211枚を制作している。
画料を復領運動の賄賂とした。
文政4年(1821年)、松前家が松前に復帰すると、波響も翌年松前に戻り、文政9年63歳で没した。
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