メモ-酒井抱一「夏秋草図屏風」
「KIRIN 美の巨人たち」 より
酒井抱一「夏秋草図屏風」
今回の作品は、雅な世界に粋と酒脱を吹き込み、江戸琳派を作り上げた天才絵師の最高傑作!酒井抱一作『夏秋草図屏風』。縦164㎝、横181㎝、二曲一双の屏風ですが、驚くことに、あの尾形光琳作『風神雷神図屏風』の裏に描かれているのです。銀地に描かれたのは夏草と秋草。右隻『夏草の図』には頭を垂れた群生する青薄が、見事なまでの鮮やかさと細密さで描かれています。また夕立に打たれてどこか寂しげな草花が。一方、左隻『秋草の図』は、強烈な風にあおられ吹き飛ばされそうに揺れる葛の葉、伸びたススキの穂、赤く色づいた蔦の葉が、深まる秋を告げています。そしてひっそりと咲く藤袴。それまで琳派ではあまり取り上げられなかった草花ばかりです。
姫路藩藩主を祖父に持つ名門・酒井家の次男として生まれ、狂歌や俳諧の世界で非凡な才能を見せていた抱一。その後、急速に光琳に傾倒していきますが、なぜ偉大なる先人の絵の裏に、『風神雷神図』と相反するかよわい草花を、しかも金地ではなく銀地に描いたのでしょうか?
表

裏

当時、尾形光琳作「風神雷神図屏風」の持ち主であった、11代将軍・徳川家斉の実父徳川 治済(従一位准大臣まで昇進したので、一橋一位様と呼称)に依頼されたから。
文化財保護のため、別々の屏風になったのは、昭和になってから。
左隻を裏に返すと、右隻の風神の風に煽られた左隻『秋草の図』
右隻を裏に返すと、左隻の雷神の雷雨に打たれた右隻『夏草の図』。にわかにできた川。
天上の風神雷神の圧倒的な荒々しさ、必死に耐える地上の草花 の対比。
銀箔は月と追悼のイメージ。
深く私淑していた尾形光琳への尊敬から。
光琳没後100年に当たる文化12年(1815年)6月2日に光琳百回忌を開催。自宅の庵(後の雨華庵)で百回忌法要を行い、光琳の菩提寺妙顕寺に「観音像」「尾形流印譜」金二百疋を寄附、根岸の寺院で光琳遺墨展を催した。この展覧会を通じて出会った光琳の優品は、抱一を絵師として大きく成長させ大作に次々と挑んでいく。琳派の装飾的な画風を受け継ぎつつ、円山・四条派や土佐派、南蘋派や伊藤若冲などの技法も積極的に取り入れた独自の洒脱で叙情的な作風を確立し、いわゆる江戸琳派の創始者となった。
光琳の研究と顕彰は以後も続けられ、遺墨展の同年、縮小版展覧図録である『光琳百図』を出版する。文政2年(1819年)秋、名代を遣わし光琳墓碑の修築、翌年の石碑開眼供養の時も金二百疋を寄進した。抱一はこの時の感慨を、「我等迄 流れをくむや 苔清水」と詠んでいる。文政6年(1823年)には光琳の弟尾形乾山の作品集『乾山遺墨』を出版し、乾山の墓の近くにも碑を建てた。死の年の文政9年(1826年)にも、先の『光琳百図』を追補した『光琳百図後編』二冊を出版するなど、光琳への追慕の情は生涯衰えることはなかった。これらの史料は、当時の琳派を考える上での基本文献である。また、『光琳百図』は後にヨーロッパに渡り、ジャポニスムに影響を与え、光琳が西洋でも評価されるのに貢献している